人間には様々に異なる匂いがあり、それが混じり合うためには恋の駆け引きやら鞘当てといった数々の面倒な手続きを踏むか、あるいは大枚を払ってでも、別の匂いを持つ肉体を買い求めないといけない、という事実は、母乳との蜜月をもたらした、あの幸福な乳幼児時代を回想するまでもなく身に迫る。
結局のところ、人が芸術という形象を借りて何かを表現してしまうのは、この匂いの差を融解させたり、あるいは違いは違いとして受容したり、逆に浸食したり、といった他者との接触への欲求の、様々な変奏にすぎないのかもしれない。そうした初期衝動は批評にもあって、アクロバティックに文脈を仮構してみせることで、読者を誘惑する。言うなれば、ハメルンの笛吹き男にも似た曲芸師であるというのが、批評家の正体ではないか? そう考えると批評は、高尚さや、網羅的に対象を解釈・解剖するといったこととは本質的には関係ないので、読むほうも書くほうも、ただ語られる(騙られる)快楽に身を任せ、そこから何か重大な秘密(のように見えるもの)をつかみ取ればよい。
ところで、小劇場に多くの人が足を運び、大して広くもない客席で時には立ち見までして舞台を観て、泣いたり笑ったり跳ねたりするのはいったいどうしたことか? かつて『ニュー・シネマ・パラダイス』という映画で、田舎の島の小さな映画館に集まる多種多様な人々が、スクリーンを観てゲラゲラ笑ったり固唾を呑んで見守ったりするシーンが映し出されていたが、もしかすると小劇場演劇は、ああいった映画の初期というか近代の始まりと言ってもよいような幸福な興奮状態を、もっともよく継承した文化であるかもしれない。少なくとも、テレビやエンタメ映画を観たり、商業的に大規模な演劇やミュージカルを観るのとは、明らかに異なる意識が小劇場の現場にはある。たぶん観客ひとりひとりに、小劇場に足を運ぶきっかけとなった何らかの物語があるのだとも思う。
しかし、小劇場演劇は安泰不変の文化では全然ない。例えば小説の世界では、ごく端折って言えば、「純文学」と「エンターテインメント」といった境界を、芥川賞と直木賞という制度によって線引きし、担保することで、良くも悪くも長年にわたる棲み分けを保ち、独自の書評・批評文化を形成することで延命を図ってきた。そして今それは内側からも外側からも食い破られ状況は変わりつつあるのだが、いっぽう演劇にはそうした確固たる境界を作るような状況は、成立した試しがあったのだろうか? ここにはきっと、演劇の最大の不幸にして、最大の幸福があるのだとわたしは思う。複製芸術である他のジャンルと違って、一瞬にして消えてしまうが、にもかかわらず観客の身体を直接目の前にして働きかけるというこの特殊な芸術は、確固たる制度的基盤や言論的磁場を築くよりも、常に変則的で、全体像が見渡し難いところが面白いのかもしれない。
しかし、それにしても、だ。やはり未だに小劇場演劇は、せいぜい中劇場や大劇場やテレビや商業映画の下位文化、くらいにしか見なされていない向きもあるのではないか。そうした見下すような眼差しを、商業メディア(そもそもあまり載せられるスペースがない)や、床屋談義的な会話の場面でまったく感じないわけではない。いや、とはいえ確実に良き理解者のネットワークはメディアの人間も含めて生まれつつあるようだし、観客の成熟もある(わたしもそうしたひとりの観客である)。やがて、ここには独自の面白さがあり、固有の芸術表現があるのだといった声も、徐々に上がってはくるだろう。実際、新しい文化として小劇場を捉え直す試みが、すでに芽を伸ばしてきているようにも感じられる。
わたしは小劇場演劇の中に、そうした未来を幻視している。しかしすべてがまったくの幻というわけではない。それなりの確証を、現場の中でつかんではいるし、それについて何事かを語ってみたいと思っている。その文脈で、《演劇LOVE》についても語りたい。これは、いちおう、予告です。
以上が、昨日こまばアゴラ劇場で行われたワンダーランドの「劇評セミナー」を通してわたしが考えたこと。