そろそろ開国しようとかな思ってツイッターのリストを整理してたらワケワカメになった。やっぱこうゆうのって編集なり分け方なりによって全然見え方が違うわけで、手慣れたはずの領域の今までは見えなかった死角から情報が飛び込んできます。
それはさておき最近のわたしはわりと夏の日差しを浴びてすくすく育ってはいるけれど、そのいっぽうで絶望とか諦念みたいなのんもずしーんと膨らみつつあって一歩間違えれば世界はすべて馬鹿馬鹿しいもーうやめーたーとゆうふうに見切りをつけて飛び降りちゃうんじゃないかとも思うけど、歳をとるにつれておいそれとそっちにはいかないよう悪知恵だけは身につけてまあそうゆうことにはならんよと99%の確信を持って断言することはできるけど、でも1%くらいはどうしても残っちゃうわけで前にも少し書いたけど昔世話になった歳上の知人が異国のホテルの窓から落ちたのはやっぱり自分からとゆうか、自分からではないにしても我が身をひょいと飛ばしてしまうような衝動が不意にやってきてしまったに違いなく、彼はまったく精神的に弱さの感じられない人だったのでおそらく悪魔は人間の精神力の強さ弱さに関係なく誰にでも不意にやってくることがあるし、単に強ければ撃退できるってわけでもないのだ。だから準備はしてます。心構えとゆうかそいつに簡単に足を引っ張られはしねーぞってゆうような、そのためにはおめおめと生き恥だってさらすしいけしゃあしゃあと生き抜いて天寿をまっとうしてやろうと思うし、悪魔がやってきたらその頭をピコピコハンマーでぽよんぽよーんと叩いてやろうと思うんだけど今書いてて気づいたのは最近、自意識がどうとか人生の悩みとかってことにわたしがまるで興味を持てない理由は、どんなに悩もうともどんなに健全であろうともそんなことにおかまいないしに悪魔は来る時は来るわけなので、わたしにとって大切なことはその悪魔がやってきた時の勝負に負けないってゆうそこんとこで、それまではいくら負け続けていてもいっこうに構わない。
人が作品をつくったり歌ったり踊ったりするのもそれに近いんじゃないかなーと思うのはいわゆる人間が、日常生活の中で慣れ親しんだ言葉で思考する、悩む、愚痴るといったことだけで世界が構成されていったらそれは非常につまらないので、やっぱりある凝縮された体験や感性の中でしか生まれないものが一気に世界を更新したり押し広げたりってことはあるし、それは悪魔とも近しいところに踏み込みかねないからその悪魔との最後の一線を賭けた勝負になっちゃう可能性も高いんだけどそこで負けないってゆうか、踏みとどまるとゆうか、むしろ出し抜くような闘いを粛々とやるってことに興味がある。それは批評も同じ。