30分くらい前、複数の消防車のサイレンが青梅街道を走っていった。この一ヶ月増えた。特に地震直後はすごかった。あの音を聞くと胸が焼けるようでくるしくなる。Webに出動情報とか載せらんないものかね。
こんなものを日常として受け入れるなんてわたしにはできない。ただそれでも生活は存在するし、できるだけ淡々と過ごしたい。と書いていたら、小さな余震がきた。このくらいではもうさほど驚かなくなりつつある。それでも身体は正直で、強い余震のあとしばらくは吐き気や立ちくらみがとまらなくなる。お恥ずかしいことに、まったく役立たずの存在となって寝るしかないようなありさま。要するにもう、毎日がサバイバルなのだと思う。
もちろん、生きるのだ、と思うしかない(考えてもしょうがない、とゆう意味で)。だけども、本当に絶対生き延びられるとゆう楽観的な確証はない(その点では知恵を絞らないといけないね)。東日本で生きていく選択をするかぎりは、それ相応の覚悟がいる。いろんな言葉がわらわらと取り囲んできて、地獄の亡者みたいに思考停止の世界に引きずり込もうとするけど、そんなのはまっぴらごめんだよわたしは。
がんばろうニッポン、とゆう言葉が苦手だ。ニッポン、とゆう謎の存在に、わたしはずっと苦しんできたような気がする。10代の初めに東京に来た時は、それで何かが変わるのだと無邪気にも信じていた、のだろうか。しかしすぐにわたしは、居酒屋で知り合ったオトナに、君にはニッポンは向いてないから早くここから出ていったほうがいいと言われるようになった。それを実行にうつせなかったのは端的に勇気が足りなかったからだ。東京に来るだけでわたしは勇気を使い果たしてしまった。鶴見俊輔のようにわっといってしまってもよかったはずだ。しかし当時のわたしはそういった人生の可能性を知らなかったし、今もいろんな理由をつけてそうした勇気のなさを隠している。いっさいは勇気のないこと。それによってニッポンの地獄の亡者の言葉につかまるし、わたしもまた共犯者のふりをすることで、彼らのいっそう過激なる攻撃をのらりくらりと交わそうとしているにすぎないのか。
ノストラダムスの大予言が何事もなくはずれた時に、少しがっかりしたような気持ちになった。それはわたしが幼稚だったからだ。今は違う。外へ出ていく勇気がないならないなりに、数々の遍歴の末に、わたしはようやく自分の居場所のようなものを見つけた感じがする。いや、居場所、とかではないのかもしれない。だけど少なくとも一緒に生きていきたいと思える仲間たちがいる。仲間たち、といっても、それは一枚岩のコミュニティではない。様々なコミュニティに、彼らもまた部分的に属する、ノマドたちのゆるやかなつながりだ。わたしたちは常に部分的である。それを損なうようなコミットは決してしないだろう。それがこの東京、あるいは、ニッポン、である種の人間が生き残っていくほぼ唯一の方法なのかもしれない。先に死んでいった人たちに、できることならわたしは、このレポートを、それなりに人生の時間を費やして書き上げたささやかなレポートを、読んでほしいと思うのだ。
今わたしはまったく世界の終わりなんてものを望んでいない。生き延びなくてはね、と思っている。もちろんそれはわたし自身のためにである。わたしはわたしの命を愛する。けれどもすでに何回も捨てたような命だ。
この前、芦ノ湖でひとりで船に乗った時、ああ、これ乗るの二回目だなと思い出した。一回目は、もっとずっと若かった時、当時の恋人と乗った。わたしはあまり他人を憎みたくない人間だが、その人に関しては今も複雑な気持ちだ。いやシンプルに憎んでいるのかもしれない。それもしかし時間が浄化してよくわからなくなってしまった。ともかくその時、こないだの雲ひとつない晴天と違って、薄曇りの冬の日だったと思う。我々は箱根町からバスに乗って、湯河原に出た。それであまりの寒さに、とはいえお金に余裕もないので、ホテルにこっそり忍び込んで温泉につかったのだった。泥棒である。ごめんなさい。そのくらい心も荒れ果てていた。そのあとがもっとひどかったが、ここには書かない。ともかく何度も死にかけるような経験をしてきた。だけど生きた。そうニッポンではこれまで生きる意思さえあれば生きてこられたのだ。だから図太い人間だけが生きることができた。それもすっかり変わってしまった。運なのだ。生きることも、そうでないことも。
生きるべきか、死ぬべきか。
そんな命題があるとしたら、答えはこうだ。「べき、なんて存在しない」
たぶんちょっと、ユーモアと愛嬌が足りないね、この文章は。iPhoneで書いてみた。